雨乞い祈祷対決

いよいよ他国侵逼の災難が現実のものとなろうとしていました。
蒙古国の使者が高麗をへて博多に到着。
時の執権は若き北条時宗

日蓮さんは、立正安国論の予言が的中したいま、時宗に対して我が書に対する対応をせまるとともに、政界仏教界の代表者十一名に対して、公の場での対決を要求しました。

国難が到来したいま、速やかに邪義をすてて、正法を取ることを強く主張し、諸宗追撃を激化させていきました。

この年は大旱魃により、雨乞いの祈祷が鎌倉極楽寺に託され、忍性が導師となり修法が行われることになりましたが、日蓮さんはこれが正邪をはっきりさせるよい機会であると対決を表明。

七日のうちに雨が降れば日蓮の負け。
降らなければ我が法華経に帰依せよ、というもので、極楽寺はこれを承諾。

祈祷が始まり七日のたち、さらに十四日たっても旱魃は止まず、日蓮の勝ちとなったのにもかかわらず、極楽寺側から逆恨みをかい、日蓮さんを誹謗中傷するばかりでした。
日蓮さんはいいました。

「あなたは民衆が苦しんでいるなかで、雨さえ降らせることが出来ずに、なぜに衆生を成仏させる法を説く資格があるのか。
日蓮をそしるのをやめて弟子になられよ。」

忍性および念仏宗は訴状をつくり、日蓮をおとしめるために幕府に訴えました。
理不尽にも、日蓮さんの弁明は受け入れられることなく、幕府評定所日蓮召し取りを決めました。