ご遷化

身延山について、日蓮さんは次のように書いております。

法華経の行者の住処なれば、いかでか霊山浄土に劣るべき。法妙なるゆえに人貴し。人貴きがゆえに所貴しと申すは是なり。」

日蓮さんにとって念願であった公場対決がいよいよ近しとの報が入り、心がおどりました。

日蓮一生の間の祈請並びに所願たちまちに成就せしむるか。日本国一同に日蓮が弟子壇那とならん。」

しかしながら、この対決は実現しませんでした。
さぞや悔しかったでしょう。

身延山におられる日蓮さんは、実に多方面の信者さんに手紙をかいておられ、そのお人柄がしのばれるとともに、おどろくべきことに内容が重なる手紙や指導がなく、すべてことなる例えや教えで書いています。
すさまじく博識な方でした。

弘安四年(1281年)夏に、蒙古・高麗の連合軍が再来し、文永の役をはるかに上回る、四千四百隻の軍船、約十四万の兵が隠岐対馬を侵略し、博多湾に浸入。
しかしながら、幕府軍も強く、二ヶ月を経過しても防塁を巡らした湾岸から本土へ上陸することができず、船上での疫病の蔓延、食糧が底つき始めたころに、またしても暴風により連合軍は壊滅し、幕府軍の掃討戦にもあい退散したのでした。

外敵襲来に際して、幕府は日蓮さんに意見を乞いましたが、誠意なき者にはもはや応じられませんでした。

翌年の正月ごろには病床にふせることが多くなられ、秋には、故郷に帰り常陸の温泉で静養を勧められ身延山を下りられました。

武蔵国の池上宗仲の屋敷にはいり、死の近いことを悟られた日蓮さんは鎌倉から駆けつけた弟子たちに最後の講義を行い、遺言として死後は身延山に埋葬してほしいと伝え、六人を本弟子とさだめて後事を託しました。

十月十三日午前八時に多くの弟子たちに見守られながら、六十一歳の生涯を閉じられました。
長い険しい旅の一生でした。