伊豆ご法難

鎌倉の松葉谷にて襲撃を受けてから、下総国の信徒の帰依を受けて布教の日々を過ごされていた日蓮さんでしたが、もはや、この法華経を弘めるのは我をおいて他にないというご心境であったでしょう。

どんな攻撃を受けても、1歩も引かない。
強い意志で政治の中心、法敵の多い鎌倉にふたたび戻ったのです。
しかしながら、幕府は日蓮を捕えて処罰することを決定し、伊豆伊東に配流となりました。
由比ヶ浜から出発した小舟で、やがて伊豆の俎岩(まないたいわ)に降ろされました。

ここは、潮が満ちてくると海に沈む岩の上。
実質的に死刑というべき処置でした。
しかしながら、この溺れるような状況のなかでも、法華経の読経をつづける日蓮さんの尊い姿に、ひとりの漁父が感銘を受けて助けました。
船守弥三郎という漁父でした。
自分たちの身の危険を顧みることなく、夫婦そろって下へも置かぬもてなしをしました。

やがて身体も回復し、地頭の伊東八郎左衛門の預りとなり、地頭の邸宅近くにわびしくも充実した生活を送りました。

日蓮さんの伊豆での生活は、足かけ三年に及びました。
流罪から赦免となったのは、仏法に理解があった北条時頼の力が働いたとされますが、残業なことにまもなく時頼も他界してしまいます。

やがて、どんな大難でも受ける覚悟の日蓮さんは、鎌倉に戻り布教をつづける決意を固めました。