観心本尊抄を執筆

佐渡一谷(いちのさわ)での生活は、塚原よりはよくなりましたが限りなく粗末なものでした。
ここも多くは念仏宗のしめる土地であり、日蓮さんは難儀されていました。
そんななか、念仏信者であった一谷入道夫妻が日蓮さんの人格に心を打たれて、ひそかに夫妻の帰依を受けました。

日蓮さんは自身が末法において釈尊の法を伝える存在、すなわち本化上行菩薩であることを表明。

安房の信徒であった富木常忍に、大・中・小の五本の筆を所望し、その「中」の筆を用いて、如来滅後五五百歳始観心本尊抄を著しました。

如来滅後五五百歳始とは、釈尊がなくなってから五百年の五倍を経過した末法の始めにあたり、という意味であり、観心とは南無妙法蓮華経というお題目です。
天台大師の一念三千の教えを解釈し、法華経に説く御本尊をここに示すということです。

「天晴れぬれば、地明らかなり。法華を識る者は世法を得可きか。」

著作から七十三日目。
現世の浄土を望見して、末法において仰ぐべき大曼荼羅本尊を浄書して掲げました。
中心に南無妙法蓮華経と大書し、その周囲に護法の諸天善神を配置したもので、これは釈尊霊鷲山において法華経を説かれたときに、にわかに地中より多宝塔が現出したという奇跡ベースとして、文字・梵字により大曼荼羅本尊としたものです。

さらに特筆すべきことがあります。
それは、日蓮さんはこの書を最重要と位置付けて「本朝沙門日蓮」とサインしていることです。

妙法蓮華経に有縁の土地である日本国に、釈尊より勅命を受けた上行菩薩たる沙門日蓮衆生を導く大導師となって、お題目と御本尊をはじめて説きあらわすのだ、という意味と決意が込められています。

佐渡に来られて、自身が単なる僧侶ではなくて、法華経に説かれている存在であることを悟られた日蓮さん。

この仏の教えが廃れてしまい邪義が蔓延している末法において、折伏と受難の伝道を実証し、衆生救済をつづけている我こそ、釈尊の本意を伝える本化たる上行菩薩である。

依然として態度を改めずに、日蓮を暴力行為によって亡きものとしようとする念仏宗の暴徒たち。
佐渡の教線が拡大したことで危機感を覚える暴徒たちの訴えをきき、佐渡守護職は偽物の幕府下知状で活動禁止令を三度も出すようなことをしましたが、うわべだけのことなどは信念を持つ者を止めることはできません。

内乱の予言を的中させ、他国浸入も現実のものとなるなかで、幕府はついに赦免を決めました。
このとき、土牢にあった弟子の日朗が赦免状を師匠に直接届けたいと懇願し、弱りきった身体でありましたが、信念を貫いて佐渡へ渡り日蓮さんと感動の再会をはたしました。