身延山へ入る

文永十一年(1274年)の春、日蓮さんは佐渡を後にして、弟子たちの待ちわびる鎌倉へ戻られました。
さっそく幕府は日蓮さんを招いて、種々の問答をおこなうなかで、執権時宗の意を受けたものからは、蒙古軍はいつ攻めてくるでしょうか??
というものがあり、このように答えられました。

「経文には、いつという事は書かれておりませんが、天の気色を伺い見ますと、ことのほか目を怒らせております。
よもや今年を過ぎることはないであろう。」

さらに、この来る国難を除くためには他宗による一切の祈祷を退けなさい。その上で、法華経による祈願を行いなさい。これによらなければ、蒙古襲来を避けることはできない。
本当の危機が迫っている。

日蓮さんはこのように諫言するも、幕府に誠意なきことを認められて、五月には鎌倉を発って甲斐国身延山に入られました。
ここでは、布教を後進に委ねようとされて著作活動を盛んにし、門弟の教育と信徒の教化に力をいれていきました。

身延山に入られた五ヶ月後に、九百艘ともいわれる数の軍船に水夫を含む三万の兵からなる蒙古・高麗軍が襲来(文永の役)、対馬を襲い、隠岐、九州へ上陸。
残酷な殺りくが行われました。

日蓮さんはこのたびの隠岐対馬で行われた殺りくがやがて日本国全土にひろがると思うとき、幕府はなぜこの日蓮の進言を退けて国を滅ぼすのか。涙を止めることができない、と手紙に書いておられます。

九州の御家人たちは多大な犠牲を払って懸命に押し返し、不幸中の幸いにして、突如として起きた暴風により蒙古・高麗の軍船は壊滅状態となったと伝えられ、襲来から約二週間で本国へ退却してゆきました。