日蓮上人の教え

かなり壮大なタイトルをつけましたが、いまさら難解な事を言う必要はないでしょう。

 

日蓮上人は、ご自分の学問・研究の結論として、妙法蓮華経釈尊の本意であるとし、南無妙法蓮華経とお題目を唱えて仏となりなさい、と教えられました。

 

帰依するものも誹謗するものもある。

しかしながら、真理とは不変であり、これにしたがうより仕方のないことである。

 

釈尊は、いかなる階級のものであっても、男女に関わらず、等しく、悟りへといたる方便の道すじを説かれました。

それらは法華経に収められています。

 

 

日蓮上人像はなぜ怒っているのですか?

日蓮上人の御生涯をレビューしてきました。

お付き合いいただき、ありがとうございました。

あらためて熱い意志と共にあったご生涯であったことを再認識しました。

 

さて、皆さんは日蓮宗のお寺にいくと大きな日蓮上人像を拝する機会があることでしょう。

それらの日蓮上人はいつも叫んでいたり、怒りぎみですよね。

なぜ怒っているのでしょう??

なにに対して怒っているのでしょうか。

私なりの答えはこうです。

 

民衆はいたずらに苦しむばかりで、それを救う良薬がここにあるというのにそれに見向きもできない状態に追い込んできたのは誰であるか。

それは毒をのませた者たちであり、またその者たちを取り締まることもできない、見識のない国家である。

これに対して、まずは怒っているのです。

そのうえで、次に苦しむ者たちへも怒っている。

苦しいならば、この法華経という教えを身にまとい病を癒しなさい。

いつまでもそうしていてはならない!

起きなさい!

たちあがりなさい!

あの世でさとりをひらくなどということはまちがっているのだ。

いま、ここで、正しい道に入らずにいつ入るというのだ。

いきたまま仏とならずにあの世でほとけになることなどはなれるはずもない。

いまここで本気になりなさい。

いまから法を説きましょう、しっかり聞きなさい。

そしてまちがいなく実行しなさい。

間違いに対してだまっていてはならない。

正しいことを弘めるのには苦痛をうけるかもしれないが、

それはこの日蓮一人の苦痛である。

ちゅうちょしてはならない。がんばって世の中を正しなさい。

 

 

ご遷化

身延山について、日蓮さんは次のように書いております。

法華経の行者の住処なれば、いかでか霊山浄土に劣るべき。法妙なるゆえに人貴し。人貴きがゆえに所貴しと申すは是なり。」

日蓮さんにとって念願であった公場対決がいよいよ近しとの報が入り、心がおどりました。

日蓮一生の間の祈請並びに所願たちまちに成就せしむるか。日本国一同に日蓮が弟子壇那とならん。」

しかしながら、この対決は実現しませんでした。
さぞや悔しかったでしょう。

身延山におられる日蓮さんは、実に多方面の信者さんに手紙をかいておられ、そのお人柄がしのばれるとともに、おどろくべきことに内容が重なる手紙や指導がなく、すべてことなる例えや教えで書いています。
すさまじく博識な方でした。

弘安四年(1281年)夏に、蒙古・高麗の連合軍が再来し、文永の役をはるかに上回る、四千四百隻の軍船、約十四万の兵が隠岐対馬を侵略し、博多湾に浸入。
しかしながら、幕府軍も強く、二ヶ月を経過しても防塁を巡らした湾岸から本土へ上陸することができず、船上での疫病の蔓延、食糧が底つき始めたころに、またしても暴風により連合軍は壊滅し、幕府軍の掃討戦にもあい退散したのでした。

外敵襲来に際して、幕府は日蓮さんに意見を乞いましたが、誠意なき者にはもはや応じられませんでした。

翌年の正月ごろには病床にふせることが多くなられ、秋には、故郷に帰り常陸の温泉で静養を勧められ身延山を下りられました。

武蔵国の池上宗仲の屋敷にはいり、死の近いことを悟られた日蓮さんは鎌倉から駆けつけた弟子たちに最後の講義を行い、遺言として死後は身延山に埋葬してほしいと伝え、六人を本弟子とさだめて後事を託しました。

十月十三日午前八時に多くの弟子たちに見守られながら、六十一歳の生涯を閉じられました。
長い険しい旅の一生でした。

身延山へ入る

文永十一年(1274年)の春、日蓮さんは佐渡を後にして、弟子たちの待ちわびる鎌倉へ戻られました。
さっそく幕府は日蓮さんを招いて、種々の問答をおこなうなかで、執権時宗の意を受けたものからは、蒙古軍はいつ攻めてくるでしょうか??
というものがあり、このように答えられました。

「経文には、いつという事は書かれておりませんが、天の気色を伺い見ますと、ことのほか目を怒らせております。
よもや今年を過ぎることはないであろう。」

さらに、この来る国難を除くためには他宗による一切の祈祷を退けなさい。その上で、法華経による祈願を行いなさい。これによらなければ、蒙古襲来を避けることはできない。
本当の危機が迫っている。

日蓮さんはこのように諫言するも、幕府に誠意なきことを認められて、五月には鎌倉を発って甲斐国身延山に入られました。
ここでは、布教を後進に委ねようとされて著作活動を盛んにし、門弟の教育と信徒の教化に力をいれていきました。

身延山に入られた五ヶ月後に、九百艘ともいわれる数の軍船に水夫を含む三万の兵からなる蒙古・高麗軍が襲来(文永の役)、対馬を襲い、隠岐、九州へ上陸。
残酷な殺りくが行われました。

日蓮さんはこのたびの隠岐対馬で行われた殺りくがやがて日本国全土にひろがると思うとき、幕府はなぜこの日蓮の進言を退けて国を滅ぼすのか。涙を止めることができない、と手紙に書いておられます。

九州の御家人たちは多大な犠牲を払って懸命に押し返し、不幸中の幸いにして、突如として起きた暴風により蒙古・高麗の軍船は壊滅状態となったと伝えられ、襲来から約二週間で本国へ退却してゆきました。

観心本尊抄を執筆

佐渡一谷(いちのさわ)での生活は、塚原よりはよくなりましたが限りなく粗末なものでした。
ここも多くは念仏宗のしめる土地であり、日蓮さんは難儀されていました。
そんななか、念仏信者であった一谷入道夫妻が日蓮さんの人格に心を打たれて、ひそかに夫妻の帰依を受けました。

日蓮さんは自身が末法において釈尊の法を伝える存在、すなわち本化上行菩薩であることを表明。

安房の信徒であった富木常忍に、大・中・小の五本の筆を所望し、その「中」の筆を用いて、如来滅後五五百歳始観心本尊抄を著しました。

如来滅後五五百歳始とは、釈尊がなくなってから五百年の五倍を経過した末法の始めにあたり、という意味であり、観心とは南無妙法蓮華経というお題目です。
天台大師の一念三千の教えを解釈し、法華経に説く御本尊をここに示すということです。

「天晴れぬれば、地明らかなり。法華を識る者は世法を得可きか。」

著作から七十三日目。
現世の浄土を望見して、末法において仰ぐべき大曼荼羅本尊を浄書して掲げました。
中心に南無妙法蓮華経と大書し、その周囲に護法の諸天善神を配置したもので、これは釈尊霊鷲山において法華経を説かれたときに、にわかに地中より多宝塔が現出したという奇跡ベースとして、文字・梵字により大曼荼羅本尊としたものです。

さらに特筆すべきことがあります。
それは、日蓮さんはこの書を最重要と位置付けて「本朝沙門日蓮」とサインしていることです。

妙法蓮華経に有縁の土地である日本国に、釈尊より勅命を受けた上行菩薩たる沙門日蓮衆生を導く大導師となって、お題目と御本尊をはじめて説きあらわすのだ、という意味と決意が込められています。

佐渡に来られて、自身が単なる僧侶ではなくて、法華経に説かれている存在であることを悟られた日蓮さん。

この仏の教えが廃れてしまい邪義が蔓延している末法において、折伏と受難の伝道を実証し、衆生救済をつづけている我こそ、釈尊の本意を伝える本化たる上行菩薩である。

依然として態度を改めずに、日蓮を暴力行為によって亡きものとしようとする念仏宗の暴徒たち。
佐渡の教線が拡大したことで危機感を覚える暴徒たちの訴えをきき、佐渡守護職は偽物の幕府下知状で活動禁止令を三度も出すようなことをしましたが、うわべだけのことなどは信念を持つ者を止めることはできません。

内乱の予言を的中させ、他国浸入も現実のものとなるなかで、幕府はついに赦免を決めました。
このとき、土牢にあった弟子の日朗が赦免状を師匠に直接届けたいと懇願し、弱りきった身体でありましたが、信念を貫いて佐渡へ渡り日蓮さんと感動の再会をはたしました。

開目抄を執筆

佐渡配流となり、念仏の盛んな塚原という土地に留め置かれた日蓮さんですが、ここでの生活は死罪とも等しい、苛烈なものでした。

加えて、鎌倉にいた信徒の多くはいかに日蓮さんが立派な学問知識があり正しい主張をしていたとしても、度重なる迫害や他宗徒からの妨害を受けることについて疑問を持ち、去っていくものが多くいました。
これらの信徒の疑問に答え、自らの立場を改めて表明することが必要でした。

塚原の破れた小堂は床こそあれど、屋根はこわれ、壁もくずれ、外となんら変わりないところで、食べるものもなく、まわりは敵視するものに溢れ、ひたすら孤独でした。

佐渡に配流となり生きて帰ったものはなく、日蓮さんもいよいよかとの思いがありました。
あすをも知れぬ、この生命のなかでなんとしても、弟子たちに向けて、日蓮の形見として書き残しておかなければならないものがある。

日蓮といいし者は、去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ。」

凡夫としての日蓮は龍口で死に、法華経の説く浄土に生まれ変わったのだという自負がありました。
我こそは釈尊より末法衆生に弘経を託された、本化上行菩薩である。

まもなく、塚原にて墓守をしていた阿仏房という一人の武士が闇討ちを卑怯なものとして、日の明るい時間に日蓮さんを斬ろうと相対したところ、まったく改心してしまい日蓮さんに帰依したことで道が開けました。
夫婦して夜中に密かに食を運ぶなど、日蓮さんをかばいつづけたのです。

さらにこのころ問答にきた佐渡守護代本間重連(ほんましげつら)に日蓮さんは、

「いま戦があるのでいそぎ鎌倉へ参じ、功名を立てなさい。」

と進言し、まもなく北条時輔の乱(二月騒動)が起き、立正安国論で予言した内乱が的中したので、日蓮さんに帰依する者が増えていったのです。

「この日蓮をいわれなき流罪としたがゆえに、自界叛逆乱(内乱)が起きたのであり、大蒙古が日本を攻めれば佐渡も安穏にあらず。」

幕府も日蓮さんの主張が的中したことに驚いて、罪過をきせられて不遇のときを強いられていた多くの弟子たちも赦されることとなりました。

開目抄にいわく、

種々の大難出来すとも、智者に我が義破られずば用いじとなり。其の外の大難、風の前の塵なるべし。
我れ日本の柱とならむ
我れ日本の眼目とならむ
我れ日本の大船とならむ
等と誓いし願、やぶるべからず。

三大ご誓願です。

1272年の夏ごろに佐渡石田郷の一谷(いちのさわ)に移ることになります。

龍口ご法難

幕府は日蓮さんを捕えて佐渡送りとすることにしました。

平頼綱らが率いる数百人が、夕刻になり松葉谷の小庵に到着。

日蓮さんを捕え、縛り上げ、ご持仏を泥中になげいれ、法華経を破き、踏みつけ、さらに日蓮さんの懐中にあった法華経第五巻で日蓮さんの頭を複数回殴るという乱暴行為をおこないました。

市中引き回し、鶴岡八幡の前にきたときに、八幡神に申し述べることありとして馬上より降りてこのように申されました。

「我れは法華経の行者日蓮である。
これよりくびを切られてみまかる。
諸天善神は、法華経を護る護法の神であると釈尊に誓ったはずであるのに、八幡神におかれてはなぜにこの日蓮をまもらぬのか。
いますぐに取り図られよ。」

龍口は刑場であり、深夜に到着し、
日蓮さんは御座に正座されて、心静かに法華経に祈った。
南無妙法蓮華経

やがて役人が刀を振り上げたときに、江ノ島の方角からすさまじい光りものが龍口に襲来し、とても刑どころではなくなり、周りにいたものたちは恐れおののき、あたりは地獄絵図のようであったとつたえられます。

処刑執行は中止、その後いまの相模原あたりに留め置かれたあと佐渡へ送られることになりました。

このとき日蓮さんは自分のことより、連座で土牢に投獄された五人の弟子たちの身を案じて、かならずまたあって法を説きましょうと愛情あふれる手紙を書き送りました。