雨乞い祈祷対決
いよいよ他国侵逼の災難が現実のものとなろうとしていました。
蒙古国の使者が高麗をへて博多に到着。
時の執権は若き北条時宗。
日蓮さんは、立正安国論の予言が的中したいま、時宗に対して我が書に対する対応をせまるとともに、政界仏教界の代表者十一名に対して、公の場での対決を要求しました。
国難が到来したいま、速やかに邪義をすてて、正法を取ることを強く主張し、諸宗追撃を激化させていきました。
この年は大旱魃により、雨乞いの祈祷が鎌倉極楽寺に託され、忍性が導師となり修法が行われることになりましたが、日蓮さんはこれが正邪をはっきりさせるよい機会であると対決を表明。
七日のうちに雨が降れば日蓮の負け。
降らなければ我が法華経に帰依せよ、というもので、極楽寺はこれを承諾。
祈祷が始まり七日のたち、さらに十四日たっても旱魃は止まず、日蓮の勝ちとなったのにもかかわらず、極楽寺側から逆恨みをかい、日蓮さんを誹謗中傷するばかりでした。
日蓮さんはいいました。
「あなたは民衆が苦しんでいるなかで、雨さえ降らせることが出来ずに、なぜに衆生を成仏させる法を説く資格があるのか。
日蓮をそしるのをやめて弟子になられよ。」
忍性および念仏宗は訴状をつくり、日蓮をおとしめるために幕府に訴えました。
理不尽にも、日蓮さんの弁明は受け入れられることなく、幕府評定所は日蓮召し取りを決めました。
小松原ご法難
1264年11月11日。
地頭の東条景信らが日蓮を亡きものにしようと小松原にて待ち伏せ、一行に襲いかかり、弟子や信徒たちが命を落とし、あるいは重傷を負うという事件がありました。
このとき日蓮さんは、景信に馬上から刀で切りつけられ、額を負傷。
さらに矢を受け、片腕を折られるという重傷を負いましたが、工藤吉隆の家来たちが駆けつけて救出され、九死に一生を得ました。
日蓮さんは、1222年2月16日のお生まれですから、42才のことでした。
弟子を殺され、自身も重傷を負わされた日蓮さんのお気持はいかほどであったでしょうか。
この事件を機に、法華経を広宣流布する我こそは、お釈迦様の言われる法難を受ける身であるとの自覚を深くされ、日本第一の行者であると弟子たちにも宣言され、ますます正法伝道を仏に誓い、ふたたび鎌倉に入っていきました。
大彗星あらわる
鎌倉に戻りふたたび布教を開始した日蓮さん。
東の空に大彗星があらわれて、人々は凶兆であるとして騒ぎ、恐れる事件がありました。
諸天善神は法華経の行者である日蓮をあわれんで大彗星をとばしたまい、天変を起こしたのでありましょうか。
日蓮さんはそう思わずにはいられませんでした。
世の中のあやまちを正す日蓮に対して、無知なる国主や民衆は敵意をもって害そうとするだけであったからです。
日蓮さんはこれから命をかけた戦いがはじまることを悟りました。
亡き父の菩提を弔い、年老いて死が近い母にあうために一度故郷に帰ることにしたのです。
故郷にある間、蓮華寺を宿として、さらに熱意を込めて教えをときましたので、法華経に帰依する人々が日増しに増えていきました。
この地域の地頭であった東条景信は念仏宗のもので、以前から日蓮さんを亡きものにしようと襲撃の機会を伺っていましたが、小松原というところで待ち伏せ、日蓮一行を襲撃する大事件が起きます。
小松原ご法難です。
伊豆ご法難
鎌倉の松葉谷にて襲撃を受けてから、下総国の信徒の帰依を受けて布教の日々を過ごされていた日蓮さんでしたが、もはや、この法華経を弘めるのは我をおいて他にないというご心境であったでしょう。
どんな攻撃を受けても、1歩も引かない。
強い意志で政治の中心、法敵の多い鎌倉にふたたび戻ったのです。
しかしながら、幕府は日蓮を捕えて処罰することを決定し、伊豆伊東に配流となりました。
由比ヶ浜から出発した小舟で、やがて伊豆の俎岩(まないたいわ)に降ろされました。
ここは、潮が満ちてくると海に沈む岩の上。
実質的に死刑というべき処置でした。
しかしながら、この溺れるような状況のなかでも、法華経の読経をつづける日蓮さんの尊い姿に、ひとりの漁父が感銘を受けて助けました。
船守弥三郎という漁父でした。
自分たちの身の危険を顧みることなく、夫婦そろって下へも置かぬもてなしをしました。
やがて身体も回復し、地頭の伊東八郎左衛門の預りとなり、地頭の邸宅近くにわびしくも充実した生活を送りました。
日蓮さんの伊豆での生活は、足かけ三年に及びました。
流罪から赦免となったのは、仏法に理解があった北条時頼の力が働いたとされますが、残業なことにまもなく時頼も他界してしまいます。
やがて、どんな大難でも受ける覚悟の日蓮さんは、鎌倉に戻り布教をつづける決意を固めました。
立正安国論(3)
天台大師が一切経を研究して、それらを整理した立場である教相判釈(きょうそうはんじゃく)を議論のベースとして、伝教大師以来の天台宗の教えに則り、法華経を最上位とすることを同意した日蓮さん。
彼の議論の方法は、非常に論理的で客観的です。
また、それらの議論を踏まえて、自らの主張を組み立てるのですから、説得力があります。
ここで注目したいのは、日蓮さんが唯一無二の正しい主張をしたかどうかという追求ではなく、議論のやり方が、学僧として優れているという点です。
「汝、早く信仰の寸心を改めて、速やかに実乗の一善に帰せよ。
しかれば即ち、三界は皆仏国土なり。」
しかしながら、提出された立正安国論に対して、幕府はなにも反応することをしませんでした。
立正安国論(2)
守護国家論はまことに論理的で体系的な、いわば論文であり、これを読み内容を理解できる人間は学識のあるものに限られましょう。
よって、自分の考えを民衆に向けて書いたという書ではなく、学僧や仲間に向けたものと考えられます。
一方の立正安国論は、主客問答により、なるほどとなっとくしながらストーリーを追う感じがあり、学者向けというより、専門外の人に日蓮さんの考えを分かってもらうような書き方が為されています。
立正安国論は、実際に前執権である北条時頼に対面し、自身の考えを伝え、直接手渡したとされています。
それだけ日蓮さんは注目されていて、会って話を聞こうということだったんですね。
しかしながら、周囲からみれば、念仏宗を弾劾する内容のこの書を幕府に奏上したことにより、日蓮さんは、ただの学僧にとどまる存在ではなくなり、危険な存在と目されるようになってしまいました。