開目抄を執筆

佐渡配流となり、念仏の盛んな塚原という土地に留め置かれた日蓮さんですが、ここでの生活は死罪とも等しい、苛烈なものでした。

加えて、鎌倉にいた信徒の多くはいかに日蓮さんが立派な学問知識があり正しい主張をしていたとしても、度重なる迫害や他宗徒からの妨害を受けることについて疑問を持ち、去っていくものが多くいました。
これらの信徒の疑問に答え、自らの立場を改めて表明することが必要でした。

塚原の破れた小堂は床こそあれど、屋根はこわれ、壁もくずれ、外となんら変わりないところで、食べるものもなく、まわりは敵視するものに溢れ、ひたすら孤独でした。

佐渡に配流となり生きて帰ったものはなく、日蓮さんもいよいよかとの思いがありました。
あすをも知れぬ、この生命のなかでなんとしても、弟子たちに向けて、日蓮の形見として書き残しておかなければならないものがある。

日蓮といいし者は、去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ。」

凡夫としての日蓮は龍口で死に、法華経の説く浄土に生まれ変わったのだという自負がありました。
我こそは釈尊より末法衆生に弘経を託された、本化上行菩薩である。

まもなく、塚原にて墓守をしていた阿仏房という一人の武士が闇討ちを卑怯なものとして、日の明るい時間に日蓮さんを斬ろうと相対したところ、まったく改心してしまい日蓮さんに帰依したことで道が開けました。
夫婦して夜中に密かに食を運ぶなど、日蓮さんをかばいつづけたのです。

さらにこのころ問答にきた佐渡守護代本間重連(ほんましげつら)に日蓮さんは、

「いま戦があるのでいそぎ鎌倉へ参じ、功名を立てなさい。」

と進言し、まもなく北条時輔の乱(二月騒動)が起き、立正安国論で予言した内乱が的中したので、日蓮さんに帰依する者が増えていったのです。

「この日蓮をいわれなき流罪としたがゆえに、自界叛逆乱(内乱)が起きたのであり、大蒙古が日本を攻めれば佐渡も安穏にあらず。」

幕府も日蓮さんの主張が的中したことに驚いて、罪過をきせられて不遇のときを強いられていた多くの弟子たちも赦されることとなりました。

開目抄にいわく、

種々の大難出来すとも、智者に我が義破られずば用いじとなり。其の外の大難、風の前の塵なるべし。
我れ日本の柱とならむ
我れ日本の眼目とならむ
我れ日本の大船とならむ
等と誓いし願、やぶるべからず。

三大ご誓願です。

1272年の夏ごろに佐渡石田郷の一谷(いちのさわ)に移ることになります。