故郷にて自説を述べる
建長五年(1253年)に比叡山を後にして、故郷に戻りました。
清澄寺にて水行をおこない、その満願となる4月28日に旭ヶ森に立ち、
立ち昇る朝日に向かって南無妙法蓮華経と十度にわたりお題目をあげたと伝えられます。
一切経を学び、修行を積んできた日蓮さんは、伝教大師以来の天台法華宗の伝統に
したがって、法華経を身をもって世に弘めることを天地に誓ったのです。
師匠の道善房をはじめ周辺の人々を集め、学問の成果を披露しました。
そこでは、釈尊の教えの根本は法華経にあることを確認し、南無妙法蓮華経とお題目を唱え、法華経の教えを実践していくことが重要であることを述べるとともに、とくに世を席巻している念仏宗については根本である法華経をさしおく教えであり、あやまったものであるという指摘もされました。
予想はされていましたが、この説法に対して念仏宗を信奉している地頭の東条氏らは大いに反発し、この地より日蓮を排斥し危害を加えようという動きにでたのです。
日蓮さんといえば教科書では他宗を攻撃してやまなかったという記述があり、攻撃的な宗教家という印象でとらえられていますが、これは誤解があるものと思います。
つまり、他宗の暴徒による乱暴な行為に対して、非暴力であり、不撓不屈の思いを徹底して、学問の成果である自説を曲げることがなかった、ということが真の姿であります。
のちに、
「種々の大難出来すとも、智者に我が義やぶられずば用いじとなり。
その外の大難、風の前の塵なるべし。」
とおっしゃっているとおりです。
真剣に学問した結果の ”法華経を最重要視する” という自説であるのだから、
異論があるというならば、私的な場では無益な争いに発展してしまうから、
そうではなく公の場で大いに議論して決着をつけましょう
というのが、日蓮さんの姿勢でした。
自誓受戒により、このころより蓮長は日蓮と名を改めるようになりました。
書簡には「天台沙門日蓮」とサインしています。
このような経緯で故郷を追われる身となってしまいました。